行かないぞ。
行かないぞ。
この冬は絶対、旅には出ないぞ。
お金、ないんだから。
そんなことしている場合じゃないんだから。
・・・そう決めていたのに。
気がつけば旅行会社のカウンターに座って航空券の予約をしていた。
やっぱり、我慢は体によくないよな。
私の旅は一昨年のサマルカンドで終点を迎えていた。
ずっとずっと行きたかったところへ行き着いて、最高に幸せで、もう思い残すことはなかったのだ。
なのにじっとしていられなくて、また旅に出る。
だけど心のどこかに必ず「本当はこんなことしてる場合じゃない」という焦りがあったのだと思う。
人生をしっかり考えなければならない時に、私は何をしに行くんだろうと。
私は関西空港でぼんやり考えていた。
「あの団体の人達、免税店で山のようにお土産を買って、これから旅立つというのにどうする気だろう……」
言ってみれば、今回の旅は「付け足しの旅」。
目的もテーマもない旅だ。
行き先さえ定まらない旅だった。
一応、インドのビザはとってみたが、航空券はバンコクまで。
バンコクからどこへ飛ぶのかは行ってみるまで分からない。
で、行ってみた。
バンコクの旅行会社に。
取れたのはインドではなくネパール行きの航空券だった。
どこでもいい。
行けさえすれば。
なんだか無気力である。
だが、バンコク随一のお寺ワット・ポーを訪れ、巨大な寝釈迦さまに向かって手を合わせるのは忘れなかった。
「神様仏様、私をお守りください。無事なおなかで帰ってこれますように……」
翌日、ぼーんやりと乗り込んだロイヤル・ネパール航空。
スチュワーデスは青のサリー姿だ。
客は外国人ばかりで日本人も珍しくない。
みんなどこへ行くのだろう。
私はどこへ行くのだろう。
眼下には広大な大地がつながっている。
過去に旅したサマルカンドもイスタンブールも、この翼の下に見え隠れする大地の連なりの中にあるのだ。
もう考えるのはよそうと思った。
余分な旅だと思うことも将来を憂えることもやめよう、私はネパールへ、カトマンズへ行く、今はそれだけでいい。
その時だった。
大地を覆う白い雲の上に、山が突き出ているのが目にとびこんできた。
飛行機と同じ高さに。
グラスに浮かんだ氷みたいに。
とんがった峰が天空に浮いている。
あれが、ヒマラヤか。
本当の旅の始まりを感じ、感動にうち震えるかと思いきや、
「隊長ーっ! 雲海に、ヒマラヤがー!」
瞬時にアラン(『ベルサイユのばら』の登場人物)の台詞をもじりたくなった自分に、ちょっと腹が立った。
ネパールのビザは空港で簡単に取れる。
と、ガイドブックには書いてあったが、実際には1時間半もかかってしまった。
荷物を受け取りに行くとターンテーブルはすでに停止しており、静まり返った受取所から少し離れたところに、私のバックパックが一つぽつんと転がっているのだった。
あらら、かわいそうに。
幼稚園のお迎えに遅刻した母の気分で駆け寄り、バッグを担ぎ上げる。
とりあえずトイレに行くつもりだった。
そこで、気がついた。
バッグ全開!
ファスナー全開!
うっわ壊れた!
まあ、近所のコー○ンで買った6千円の安物だし、もう何年も使ってるから仕方がないよねー。
なあんて。
そんなはずがない。
中のポーチまで開けられているのである。
探られたのだ。
空港の人間が盗みをはたらくなんてことは日常茶飯事。
やられたなあと思った。
もちろん鍵はかけていたのだが、ファスナーを壊されては意味がない。
呆然としていると空港職員が近寄ってきた。
「どうしたんだ?」
「どうしたもんこうしたも、バッグ開けられて、盗まれたよ!」
「何を盗まれた?」
何だろう?
荷物を詳しくチェックすると、驚愕の事実が明らかになった。
「何も盗まれてないみたい」
ファスナーをこじ開けたはいいが、金目のものが入っていなかったので、盗りようがなかったのだろうか。
しかも安物ゆえの幸か不幸か、ファスナーはすぐに直った。
空港職員はほがらかに笑って、
「それは良かったな! だがネパール人として恥ずかしい限りだ。
お詫びに宿を紹介しよう」
と言った。
それはお詫びじゃなくて客引きというのだ。
まあ宿探しも面倒なのでお世話になっておこう。
ついでにご飯もおごってもらっちゃおう。
ネパール人ってけっこういい人かもしれない。
荷物の件だが、数日たってから更に意外なことが判明した。
ポーチの中に入れておいた耳掻きが、へし折られていたのである。
折れたのではなく明らかに人の手で折られている。
他のバックパッカーの話によれば空港の荷物検査は相当厳しかったそうだから、ひょっとしたら私がビザで手間取っている間に無断で荷物検査が行われ、凶器と判断されたために折られたのかもしれない……耳掻きが。
野良犬。
野良牛。
野良ヤギ、野良ブタ、野良のサル。
カトマンズはネパールの首都だと聞いていたが、無秩序な放し飼い動物園であった。
だが、この町でヤギを見つめていはいけない。
宿の向かいにつながれているヤギさん、可愛いなあ、なんて見ていたら、翌朝には解体されて店先で晒し首にされていたりするからだ。
また、歩き疲れたとき
『Star Cafe』
なんてオシャレな看板を見つけても、お茶でも飲もうと店を覗いてはいけない。
実はそこも肉屋で、大柄な兄ちゃんたちが血まみれの修羅場でナタをふるい、ヤギをばらしている最中だったりするからだ。
どこがカフェなのだか教えてくれ、ヤギよ。
橋の上から見渡せば、猪だか豚だか分からないブーブーファミリーが、真っ黒などぶ川を一族郎党ひきつれて渡っているのが見える。
体を真っ黒に汚しながらゴミの山をあさっている。
更によく見れば、真っ黒な人間が同じ山をあさっており、何かのきれっぱしを巡って豚ファミリーと闘っていたりする。
・・・頑張れ、人間。
心の中で励ましながら町を歩く。
カトマンズ、なかなかおもしろい町である。
カトマンズには2泊しただけで、3日目からは国内ツアーを使って移動をする。
バスで6時間、目指すはチトワン国立公園。
虎も棲むという鬱蒼たるジャングルだ。
ここでは象の背中に乗ってのジャングル・サファリがウリである。
緑したたる森の中。
象はどんなジープも入れない獣道へと分け入っていく。
丸太のような足で、ざばざばばと川を渡る。
おいしそうな草があれば、ちょっと休憩。
素敵な2時間半だった。
なのに私は、どうしてもテンションが上がらない。
旅行中に鬱になるとは変だなあと思っていたのだが、ようやく気がついた。
風邪をひいている……。
「大丈夫か」「薬はあるのか」「熱は下がったか」
同じロッジのイギリス人達が心配してくれるのはありがたいのだが、ぺらぺらとまくしたてられるキングス・イングリッシュは頭痛を悪化させるだけであった。