ネパール・インド、付け足しの旅(7)・・・お金のこと


インドに慣れない私にとって・・・慣れる暇のない私にとって、観光はほとんど闘いだった。
一方的に寄ってきて建物の説明をしてはチップをせびる「勝手にガイド商法」とか。
リクシャーに乗ったら自動的にシルク屋につれていかれる「勝手にお土産屋商法」とか。
まあいろんなのが来るわけだ。

大抵は追い払えるが、性質が悪いのは寺院を見学したときの「お布施商法」である。
相手も私も普通にケンカ腰。
 「お布施だ! お布施を払えって言ってるんだよ!」
 「もう払ったやん!」
 「足りないよ、100は出せよ! これはお布施だよ?
  お前の母国では寺にお布施も入れないのか」
 「そんなんに100も200も払うやつがあるか!
  私の初詣は京都の有名な神社だったが、お賽銭2円ですましたぞ!(本当)」
 「おまえケチだな!」
だんだん論争の焦点がズレてきたりもすとか。
強面の兄ちゃんが数人で取り巻いてきたり、小部屋で説教されたり、これはほとんど強盗だろうという手口さえあった。
それでも払わなかったけど。

兄ちゃんなんか怖くない。
小部屋に連れ込まれる前に逃げ出せばいいことだ。
はっきりNO!と言えばいい。

本当に辛いのは・・・自分が日本人であることをまざまざと思い出したときだ。
ネパールにしろインドにしろ、あまりにも物価が違うから。

たとえばサイクルリクシャーに
 「ゴードリヤーまで20ルピーは高いよ。15にして」
と値切るとき。
父ほどの年齢の男がため息まじりに
 「いいよ15で」
と妥協するとき。
そして彼が薄いサンダルを踏みしめ、汗水たらして自転車をこぐ、その力強いふくらはぎを見ながら、
 「15ルピーって40円くらいかなあ」
と計算するとき。
つい考えてしまうのだ。
日本人の私は、退屈な仕事を一日こなすだけで彼の必死な労働の何十倍もの給料をもらえる。
これはどうしてもおかしいんじゃないだろうか。
たまたま豊かな国に生まれたからと、仕方がないのだと、私にはどうしても思えないのだ。
お金っていったい何なのだ。

たとえば物乞い。
はだしの小さな女の子に出会ったとき。
黒ずんだスカートをはいて、手に赤ん坊を抱いて、もう片方の手を一生懸命のばして観光客にすがりつく。
 「マダム、マダム、プリーズ」
ぼさぼさの頭をふりたてて懇願されたとき。

私は、彼らの一人に小銭をあげたら最後、どんなことになるのか知っている。
我も我もと物乞いたちは、まるで亡者のように増え群がり、襲いかかってくるのだ。
彼らはたくさんいるのだから。

もうひとつ知っていることがある。
幸か不幸か、物乞いの多くは私より背が低い。
子供や老人や障害者だからだ。
だから顔を上げてまっすぐ歩けば、彼らは視界に入ってこない。
そうすれば向こうもあきらめて寄ってきはしない。

でも、それでいいのか。
問いかける自分が、自分の中にもう一人いる。
目をそらしたまま、何も見ないまま、歩き続けることはできない。
だって私達の目は、見るためについているのだから。
たとえ何もできないと知っていても。


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